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綾町のおいたち
歴史
綾町のおいたち
本町の起源は古く、中央台地の尾立地区に縄文遺跡があることから、この時代にすでに人が住んでいたと思われる。
延喜式(西暦967年律令)の日向(宮崎)16駅の中に亜椰(綾)駅が見られ、野尻・小林・真幸を経て肥後(熊本)に通じる駅路の1つでした。その駅跡が立町に残ってます。このことから、奈良時代にはすでに1集落が形成されていたことを物語っています。
その後平安時代の中期より大分の宇佐神宮の宮領となり、鎌倉時代の初期に伊東氏が地頭として赴任し、その疵護のもとに細川氏、後の綾氏が支配していましたが、足利8代将軍義政の頃から伊藤氏直轄の支配となりました。綾城は伊藤家48城の1つで、薩摩の島津氏と戦う山東の拠点であり、飫肥攻撃や三股千町の奪い合い、木崎原の合戦にその使命を果たしましたが、天正5年12月9日伊藤氏の豊後落ちにより島津氏が綾を支配することになり、江戸時代を経て明治維新を迎えるまで291年間続きました。
明治維新に綾郷に南俣村・北俣村をおきそれぞれ戸長役場をおきましたが、明治15年6月に南俣村・北俣村を合併し綾村とし役場を古城へおきました。さらに明治17年高岡郷の入野村(宮原・崎ノ田・古屋・尾原・上畑等)を合併し、明治22年町村制実施とともに南俣・北俣・入野の3つをいっしょにして、綾村と称えました。当時の戸数は727戸でした。
その後昭和7年10月1日町制を施行して今日に至っています。